クマのプーさんと戦争

「クマのプーさん」は1926年にA.A.ミルンによって出版されました。
物語に出てくるクリストファー・ロビンは1920年に生まれたA.A.ミルンの息子クリストファー・ロビン・ミルンでした。
2人の人生は2つの戦争によって狂っていき、プーが人気となった背景には戦争がもたらした影がありました。

イギリス黄金時代

A.A.ミルンは1882年にロンドンで生まれました。
後に画家として共に「クマのプーさん」を作るE.H.シェパードもその3年前にすぐ近くの通りで生まれました。
ちょうど1865年に「不思議の国のアリス」、71年には「鏡の国のアリス」が出版された、英国児童文学の黄金時代でした。
ミルンも少年時代を楽しく過ごし、優秀な学生として進学。
ケンブリッジ大学では学生雑誌「グランタ」を編集し、卒業後1906年に「パンチ」誌の副編集長となります。
一方、1904年にJ.M.バリーによる「ピーターパン」が初演を迎えます。
英国児童文学の黄金時代は頂点に達します。
地位と名声を得て社交界にも出入りしていたミルンはバリーとも親しくなり、さらに1913年に結婚。
そんな中イギリスが世界の中心であった輝かしい時代が終わりを告げようとしていました。

第一次世界大戦

輝かしい時代に陰を落とすように第一次世界大戦が勃発。
ミルンは平和主義者でしたが、当時の世論と同様これは「平和のための戦争」だと考え賛成していました。
通信兵となったミルンは戦場に赴き、塹壕線を経験。
負傷し本土に送還されました。
「クマのプーさん」挿絵画家のE.H.シェパードは戦地で兄を亡くしました。
後にミルンは自伝で戦時中の描写を拒み、「戦争という、あの悪魔のような、精神的、かつ道義的陥落については、考えるだけで吐き気がするからである」と述べています。
戦後、再びパンチの編集部に戻ろうとしましたが、そこにミルンの席はありませんでした。
彼は戦時中に軍人のために劇を執筆しており、その経験からバリーの手助けもあり劇作家へと転身します。
ミルンの人生を大きく変えた第一次世界大戦は、イギリスという国の歴史も大きく変えてしまいました。
世界の中心がイギリスからアメリカに移動していきます。

黄金時代の記憶

1920年、息子クリストファー・ロビン・ミルンを授かりました。
息子がテディベアと遊ぶ様子を見ながらミルンは自らの少年時代を懐かしみ、物語を作りました。
1924年〜28年にかけて「プーもの」の4冊の児童文学を発表。
記録的な大ベストセラーとなります。

後にクリストファー・ミルンは、これらの物語は自分が体験したものとは異なる部分が多いと語っています。
プーの物語はクリストファー・ロビンが遊んだものとして描かれていますが、実際には父A.A.ミルンが自らの少年時代を懐古し描いたものです。
第一次世界大戦を経て世界の中心がイギリスから離れつつある世の中で、黄金時代の懐かしさが現れた世界が100エーカーの森です。
戦争による暗い時代を生きる人々に100エーカーの森のノスタルジーが響き、大人にも読まれる児童文学となりました。
英国児童文学の黄金期が築き上げた不思議の世界を懐かしむように、「クマのプーさん」は黄金期の最後のページを刻みました。

ミルンの平和主義

「クマのプーさん」第一話でプーははちみつを取ろうとして風船で空に浮かびます。
プーはクリストファー・ロビンに風船を銃で撃ってもらい地面に降ります。
この挿絵を見てみると、クリストファー・ロビンが持っている銃はおもちゃで、弾には紐がついて銃に繋がっています。
この紐の長さでは空を飛んでいる風船に当たるはずがないのですが、この挿絵にミルンそしてE.H.シェパードの平和主義が現れていると言われています。

平和のための戦争と考えていた第一次世界大戦で経験を経て、ミルンはより平和主義に傾いていました。
再び大戦の足音が迫る中、1934年には「名誉ある平和」という本を出版し、「戦争とは、人間の悪意と愚かさを最大限に表現するものだ」と語り、必死に平和主義を訴えます。
しかしどんなにそれを唱えてもドイツは侵攻を続けてきます。
国際連盟に失望したミルンは「ヒトラー主義に比べれば、戦争の方が小さな悪だと信じる」と、再び戦争賛成に転じました。

第二次世界大戦

その後プーと100エーカーの森で遊ぶ時代を終え寄宿学校に通い出したクリストファー・ミルンは、休暇になると父親とよく遊ぶようになりました。
そしてクリストファーもケンブリッジ大学に進学。
父と同様の道を辿っていました。
そこに現れたのが第二次世界大戦でした。
クリストファーは在学中に出兵。
戦後、復学し1947年に卒業します。

父と同じ道を歩んでいたはずのクリストファーですが、戦争が時代を変えていました。
輝かしい時代に大学を卒業した父とは異なり、第二次世界大戦後に世間に出たクリストファーは作家の道を歩むことに苦労します。
苦労は自分の「クリストファー・ロビン」という有名すぎる名前のせいでもあると考えた彼は、息子を使って富と名声を得た父を恨むようになりました。
父ミルンも晩年は病気で寝たきり状態になり、息子に裏切られたという気持ちが強くなりました。
こうしてミルン親子は絶縁状態となり、そのまま父A.A.ミルンは1956年にこの世を去ります。
父の葬式にふらっと現れたクリストファーを見て母は狼狽したといいます。その後母が死ぬまでクリストファーに会うことはありませんでした。

2つの世界大戦は2人の親子の人生を狂わせ、黄金時代を失ったイギリス人の心を100エーカーの森が癒しました。

くまのプーさんの英語名「ウィニー・ザ・プー」の「ウィニー」とは、第一次世界大戦のためにカナダから来た旅団のペットのクマ「ウィニー」から名付けられました。
ウィニーを連れたカナダ旅団がイギリスまで来たところで、戦争は悪化。
フランスへ赴くのにクマを連れて行くわけにはいかなくなり、ウィニーは主人と離れ離れにされ、ロンドン動物園に預けられました。
彼女は戦後ロンドン動物園に正式に寄贈され、ロンドンっ子の癒しの存在となります。
少年クリストファー・ミルンもウィニーがお気に入りで、自らのテディベアも彼女から名前をもらいました。

大人になったクリストファー・ミルンは娘を授かりますが重い小児麻痺でした。
クリストファーは父のように子供が遊ぶ様子を見て100エーカーの森を作り出すということはありませんでした。
しかし娘と向き合う中で自らの少年時代とも向き合い、晩年ついに亡き父と和解し100エーカーの森を受け入れます。

戦争が人々の人生を狂わせ、人々を切り裂く中で、子供時代が生んだ不思議の世界が人々を癒し未来を切り開いていったのです。

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コピーライト
(c)Disney. Based on the "Winnie the Pooh" works by A.A, Milne and E.H.Shepard.
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