クマのプーさん後のA.A.ミルンとクリストファー・ロビン

4冊の「プーもの」の成功

1924年 詩集「ぼくたちがとてもちいさかったころ」(When We Were Very Young)
1926年 「クマのプーさん」(Winnie-the-Pooh)
1927年 詩集「ぼくたちは六歳」(Now We Are Six)
1928年 「プー横丁にたった家」(The House at Pooh Corner)

立て続けに出版された4冊がいわゆる「プーもの」と呼ばれています。
どれも大ヒットを記録しますが、著者A.A.ミルンは「プー横丁にたった家」でプーの物語を終わらせることを決心。
背景には、想像以上の取材で息子のクリストファー・ロビン・ミルンが精神的に疲弊してしまったこと、ミルン自身が劇作家ではなく子供向け作家として世間から認識されてしまうことがありました。

プーとの別れ

1932年にナニー(乳母)が退職すると、クリストファーは父と2人でよく遊ぶようになります。
プーと遊んだ幼少期との別れの時です。
2人とも「プーもの」でついた世間からのイメージから離れようとしますが、簡単にはいきません。
クリストファーが「クリストファー・ロビン」として扱われることは学校でも続きますが、まだ親子の仲が崩れることはありませんでした。
ミルンも劇作家として再び脚光を浴びることを望みますが、最も評価を受けたのはケネス・グレアムの「たのしい川べ」の舞台版「ヒキガエル屋敷のヒキガエル」で、結局子供向け作家という印象を強めるだけでした。
クリストファーは父と同じように作家を志望し、ケンブリッジ大学へ進学します。

親子の断絶

第二次世界大戦が勃発すると、クリストファーは従軍。
戦後復学し1947年にケンブリッジ大学を卒業しますが、作家として生きていくのは困難を極めます。
クリストファー・ロビンとして扱われ、親の名声を利用していると言われ続けた彼は、父は自分を利用して成功し自分には何も残さなかったと考えるようになり、両親が死ぬまで恨み続けることになります。
1948年には、両親の反対を無視していとこのレスリーと結婚。
作家を諦め書店を開くことにします。
ここでクリストファーは両親から精神的にも物理的にも独立を果たしたのです。

父の死と和解

1952年、ミルンが心臓発作で倒れます。
1956年1月31日、A.A.ミルンはコッチフォード・ファームで息を引き取ります。
クリストファーは父の葬儀にひょっこり顔を出し、母を狼狽させます。
父の死後にクリストファーの娘クレアが誕生。
クリストファーは自分の幼少期に何が起き何を父が残したかを記録することにし、自分と向き合い始めます。
1971年、母ダフネが死去。
1974年、「クマのプーさんと魔法の森」を出版。自分の過去とプーとの関係と向き合い、遂に父と和解します。
娘クレアが脳性麻痺だったこともあり、クリストファーは作家としての活動も行うことを決意。
父が遺したプーの印税も受け取ることに決め、アッシュダウン・フォレストの保護運動に加わるなど、穏やかな余生を過ごします。
1996年4月20日、クリストファー・ミルン死去。
あまりに有名な名前を背負って生きることに苦しみ続けた2人は、晩年「プー」の作者・登場人物である自分も人生の一ページだと受け入れ、激動の生涯を終えました。

A. A. Milne: His Life
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コピーライト
(c)Disney. Based on the "Winnie the Pooh" works by A.A, Milne and E.H.Shepard.
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